きのうの三線教室(修正あり)

きのうの教室は比較的参加者が少なかったので
ひとりひとりの課題曲にじっくり取り組むことができた。

  • 『南洋小唄』
  • 『鷲ぬ鳥節』
  • 『鳩間節』
  • 『すみなし節』

こんな感じでしたよ、とっしぃくん(笑)。


八重山の曲(『鷲ぬ鳥節』)は発音が難しい。
内地の人間にとってみれば、八重山に限らず
うちなーぐち(琉球文化圏を包括する意味での)の発音は難しいのだけど
沖縄本島の人間にとっても八重山の発音は難しいようで
自分の師匠(失踪中)なども八重山の唄は唄いたがらなかった。
まあ内地の人間にとっては八重山も本島も同様に難しいので
ある意味楽かも知れない。
どちらもマッサラな状態から学べるから。
本島の人のほうがそういう意味では
かえって難しい部分があるのではなかろうか。
まあ、どちらにしても難しいことには変わりない。


自分の元妻は八重山民謡を学んでいて
一度自分の『鷲ぬ鳥節』を聴かせたことがある。
「どう?」
「・・・まあ、頑張って。」
どういうことやねん(怒)。


先日コメントをいただいたのーりー兄さん(と呼ばせてください)の
ブログ『のーりーのゆんたく広場』に
登川誠仁先生が中学時代ののーりー兄さんに

八重山の歌を上手に歌えないと自慢にならない!
八重山宮古の歌も大事に歌いなさい。

と語った、という記述があった。
今や沖縄(本島)民謡の頂点に立つ誠仁先生をしても
八重山宮古の唄はそう言わせるだけのものがあるのかと
ちょっとした驚きもありつつ感心した。


正しい発音で唄うことは大事であるが
それにとらわれるだけではいけない。
「唄を自分のものにする」には
「正しく唄える」ことから先の修練が必要だ。
その唄の世界観を自分なりに消化して
自分の肝(ちむ)に染み込ませる。
そして自分というフィルターを通して人にその世界観を伝える。
それはひいては自分自身の持つ世界観を伝えることに他ならない。
そうなったとき初めて唄は、自分のモノになり
人の心を打つ作品となる。
誠仁先生の『六調(八重山民謡)』など聴いても
見事に誠仁先生“だけ”のモノになっている。
そうなったとき、「八重山である」とか「本島の人が唄っている」とか
そういう垣根は取っ払われて唄は、ただ唄として地に降りて来る。


自分の、自分だけの『鷲ぬ鳥節』が唄えるようになりたい。


のーりーのゆんたく広場


※コメント欄にある沖縄の友どのの「誠小先生」という表現についてのご指摘通り
「誠仁先生」と修正いたしました。