函館ツアー(写真編 2)


旧幕府脱走軍の切り札であった開陽丸。
我が曾祖父も士官として乗り込んでいたこの船は
現在江差湾に沈んでいます。
現在は「開陽丸青少年センター」で
その原寸大レプリカを観ることができます。



海底から引き上げられた開陽丸の帆。手縫いのようです。



開陽丸の部品類。非常に精巧に出来ていて
現代の職人がハンドメイドで再現することは不可能に近いそうです。
開陽丸が当時のヨーロッパの最先端技術の粋を
集めて作られた船であることが判ります。



開陽丸レプリカの中は資料室になっていて
当時の乗組員たちの様子が再現されています。
現在の開陽丸は2層ですが実際は3層だったそうで
とうぜん天井はこれよりもだいぶ低かったようです。



開陽丸をオランダに発注するとき
徳川幕府は葵の紋の図案を送り船につけるよう
注文したそうですが出来上がって来たものは
ハート型が3つ合わさったカワイイものになりました♪
これは実際に開陽丸についていたもの。
なんか微笑ましい。



旧幕府海軍副総裁榎本武揚
俳優の石橋連司さんに似てます。



開陽丸には軍楽隊も乗っていたようで
楽器の一部が発掘されています。



開陽丸はヨーロッパで作られた当時最高レベルの
軍艦だけあって現代の我々が持つ「軍艦」のイメージ
からすると相当にオシャレです。



軍艦なので当然武器も大量に積まれています。
拳銃の遺品に刀の時代の終焉を思わずにはいられません。



遺品の中には大量の砲弾があります。
旧式の丸い砲弾といわゆる砲弾型の2種類があり
大砲の技術の進化の過渡期であることを思わせます。



遺品の中にはこんなモダンな食器類も。
ケーキサーバーがあるということは
ケーキを作る人がいたということで
ケーキを食べていたということになります。



ビールビンが四角いのは船内で転がりにくいようにか。
一説によると「ハイネケン」製だったそうです。
ワインも飲んでたらしい。
榎本武揚をはじめとする当時の幕府海軍は
海外留学も経験し当時としては相当先進的な
インテリ層であったことが伺えます。



開陽丸は2600トンと当時最大級の軍艦ですが
これに400名近く乗っていたことを考えると……。



土方歳三嘆きの松」
土方歳三榎本武揚江差湾を望む山の
松の木の脇に呆然と立ちすくみながら
沈みゆく開陽丸を見て涙を流したそうです。



「嘆きの松」から臨む江差湾全景。
右からのびる防波堤を跨ぐように
開陽丸は沈んでいるそうです。
そりゃー嘆きたくもなるわ……。



「嘆きの松」からほど近い寺にひっそりと
旧幕府脱走軍無名兵士の墓がありました。
敷地内には新政府軍兵士の立派な慰霊碑があり
歴史の残酷さを思い知らされます。




土方歳三が攻め落とした松前城
想像以上に立派なお城で江戸期における
松前藩の繁栄ぶりが伺えます。



土方歳三最期の地「一本木関門」跡。
新撰組副長として京都の街に勇名をはせた土方歳三
鳥羽伏見の戦いの後、新撰組を率いて各地を転戦して北上し、
仙台で旧幕府海軍副総裁榎本武揚が指揮する脱走艦隊と合流した。
明治元年(1868年)10月、蝦夷地に上陸した榎本軍は箱館
占拠して新政権を樹立、土方はその陸軍奉行並の要職に就いた。
翌2年4月、新政府軍の総攻撃に榎本軍は各地で敗退したが、
土方が守った二股口(現・大野町)だけは最後まで落ちなかった。
しかし同年5月11日、ついに箱館も政府軍の手に落ちた。
土方は箱館奪還を目指し、50名の兵を率いて一本木(現・若松町)の
関門を出て箱館市中に向かい、敢然と切り込んで行ったが、
銃弾に当たって倒れ、波乱に満ちた生涯を閉じた。時に35歳であった。」
(案内板より)




土方歳三最期の地碑。
全国から歴史ファン、新撰組ファンが集い
つねに花や線香の絶えることがないそうです。