『白雲節』異説(1)

hacchaki2006-06-17

『白雲節』は沖縄民謡のなかでもっとも好きな唄のひとつだ。
この唄がなかったらおそらく自分で三線を手に取り
唄いはじめることはなかったであろう。
そのくらいこの唄は自分に衝撃を与えた。


白雲ぬ如に     (しらくむぬぐとぅに)
見ゆるあぬ島に   (みゆるあぬしまに)   
飛び渡てぃみぶさ  (とぅびわたてぃみぶさ) 
羽ぬあとてぃ    (はにぬあとぅてぃ) 


で始まり、海を隔てて遠くに見える離れ島に暮らす
思い人への恋心を切々とうたった唄である。
大城美佐子先生のアルバム『絹糸声(いーちゅぐい)』に入ったこの唄は
まさに絹糸を引くような哀切に満ちた歌声で
沖縄民謡にハマり始めたばかりの自分を魅了した。


アルバム『絹糸声』発売の流れだったろうか
六本木『島唄楽園』での大城美佐子ライブには
自分ももちろん駆けつけた。
大城先生はこの『白雲節』を確か2度唄った。
1度目は嘉手苅林昌さんへ、2度目は竹中労さんへ。
そのようなことだったのだろうか。
「唄い足りない」というようなことを言って
アンコールで2回目を唄ったような気がする。
ファンからしてみれば2回聴けたことは
とってもラッキーだった。


「見えるから辛いんだよね。」
NHK-BS『夢幻琉球〜大城美佐子パリ公演』の中で
映画監督の高嶺剛さんと会話の中で
話が『白雲節』から嘉手苅林昌さんに及んだとき
大城先生はそうおっしゃっていた。
このセリフに、この唄の本質が凝縮されているような気がする。
海の向こうに見えるのに、渡ることが出来ない。
あなたの面影は今もやすやすと思い浮かぶのに、もう逢うことが出来ない。
ひとは、「見える」からこそ切なくつらい。
とくに沖縄のように現世とグソー(あの世)が地続きの土地では
目で見えるかどうかはあまり関係ないのかも知れない。
それが“心の目”であれ、「見えない」ものには思いを寄せることもないのだ。
(つづく)