狂言と桂枝雀のウィークエンド(加筆あり)

きのうなんとなくテレビを付けていたら
野村萬斎さんが狂言についてをレクチャーしてくれていてその話が面白かった。
そもそも狂言のなんたるかなんてよくわかっていないワタクシでありますが
萬斎さんは「能」と「狂言」の違いについて
「能は人間の内面を表現にすることで悲劇性を引き出す。
狂言は視点を内面から外面に移し人間を1歩も2歩も引いた所で
その客観性を描く。それが結果として滑稽さを生み出す。」
と語っていた。
一般に「能」は悲劇的、「狂言」は喜劇的と言われるが
例えば失恋した男がいるとして
その男の心の内側を掘り下げれば、失恋に至るプロセスには
複雑な想いや葛藤があったりしてそれは悲劇的だったりするわけだが
離れた所から客観視すれば、失恋した男が嘆いたり頭抱えている姿なんてのは
「あいつ、馬鹿だね〜あんな女に引っかかっちゃって」なんてことにもなりうる。
狂言というのは人間の営みの中にあるものを客観視して描くことで
そこにおかしさを見いだす芸能であるということなのだ。
だから狂言の動きというのは無駄がいっさいそぎ落とされて
非常に様式的である。そうすればするほど客観性が浮き立ち
おもしろさが浮き彫りになるのだ。


これは「おかしく」演じたり「面白く」表現するのとは違う。
変なことをやってウケを取ろうというのとは本質的には異なる。
そのことを萬斎さんはチャップリンの映画に例えて話していた。
チャップリンは映画の中でものすごく一生懸命だ。
山高帽にだぼだぼズボンの扮装はそのものが滑稽だし
変なこともしたりするんだけど本質的に「本人は大真面目」という演じ方をする。
そこが狂言に通じると萬斎さんは言うのだ。なるほど〜。
ワタクシは一度だけ萬斎さんの狂言を観たことがあるのだが
ただ四角いだけの何もないシンプルの極みのような能舞台という装置の中で
狂言師が歩き、振る舞う所作によってブワーっと世界が広がる。
あの衝撃は今でも忘れられない。
とことんまで突き詰められたところで成立している芸であることに強い感動を得た。
あーいう世界にプロレスなんかに出ているヒマはないはずだ(和泉・・・)。


そんなわけで萬斎さんの狂言レクチャーは大変面白く
目からポロポロとウロコが落ちたのである。


で、そのあとビデオを整理していて落語家桂枝雀のビデオが出て来たので観てみた。
枝雀師匠の芸は「面白いことをやってやるぞ」という芸のように思えた。
自ら、あるいは落語の中の登場人物が「変な人」だったり「面白いこと」をやって
それを面白がる、という芸。
これがちょっと観ていて辛かったのだ。
師匠が自から命を絶ったという事実を抜きにしても。
(そのビデオはTBS『落語名人会』の桂枝雀追悼特集だった)
ある時期上方落語で一世を風靡し、全国区でも大変人気があった落語家であるが
彼は「変な人」や「滑稽な人」を演じ、
「より変であるにはどうすればいいか」
「より変な人はどうすれば表現できるか」
を追求し続けたタイプの落語家であったように思える。
それは綿々と語り継がれて来た古典落語の既成概念を壊すというパワーを持ってはいた。
落語の中では御法度であろう客に背中を見せて後ろ向きになってしまったり
マイクを無視して座布団から転げ落ちたり。
もともと坊主顔であるところにこれでもかというひょうきんな表情を作ったり。
だが「より変」を追求して行くと、いつか限界がやってくる。
「変」も境界線を越えれば「ただの狂人」になってしまうからだ。
そんなもの表現したら、落語ではなくなる。
師匠はその境界線に辿り着いて絶望してしまったんだろうか。
そんなことをぼんやり思って、ビデオを止めてしまった。最後まで観ることが出来なかった。
「ふつう」を演じることはむずかしい。
「ふうう」の中にあるおかしさを演じることはおそらくもっと難しい。
でもそこには普遍性がある。だから演じ続けられる。だから時代を超えて愛される。
そこを越えて、「もっと面白いことはないか」とチャレンジし続けるのは
勇気のあることではあるが、おそらくとても危険な道なのだ。
 

これはいろいろな芸能に通じることだ。
唄でも「ふつう」に唄うのは意外とむずかしい。
「個性」は大切だがそこに寄りかかったり
奇をてらったりして人を驚かすことは、わりと簡単にできる。
でもふつうに唄って、そして人を感動させるのは本当にむずかしい。
そしてそれが出来る人というのが世の中には居るのだ。
そういう人に出会ったとき、ホントにスゴいなあと思う。
自分もそうありたいなあと思う。
特別な何かは、何も必要ない。ふつうでよい。
最近のテーマは「“ふつう”のすごさ」なのだ。