慈しむように唄え

hacchaki2007-07-10

ある人の民謡ライブに行った。
三線をギターのコード弾きのごとく
かき鳴らしながら喉を絞ってがなり立てて
唄うそのスタイルに愕然とした。
いや、いいんですよ。いいんですけどね。
何を唄っているのかさっぱり判らない。
本人は楽しそうだが、何が楽しいのかさっぱり判らない。


唄い方はそれぞれあっていい。
個性はそれぞれにあって構わない。
みんなが同じように唄う必要はまったくない。
でもとても言葉のひとつひとつ、
三線の一音一音を大切にしているとは思えない
そのスタイルになんだか悲しくなってしまった。
なんだか唄と三線がかわいそうに思えてしまった。


もちろん人の振り見て我が身を省みろ、である。
言葉をひとつひとつ、大切にしているだろうか。
楽器の音色ひとつひとつに、魂を込めているだろうか。
その一語を、その一音に神経を行き渡らせているだろうか。
心を込めて、聴く人にその唄の世界観が伝わるように
丁寧に唄っているだろうか。
ひとそれぞれ考え方はあるだろうが
唄い手の仕事は「伝えること」だと思う。
「唄は自己表現の手段」というのは常套句だが
「表現」は聴き手に伝わって初めてその任務を全うする。
その唄の世界観を、その唄に対する自分の思いを
聴き手に伝えてこそ唄う意味がある。
「表現」している、という事実に満足しているだけでは
それは自己満足に過ぎない。
その唄に対する「愛」があるならば
その「愛」を伝えなければ意味がない。


たまにライブハウスで他のジャンルの
ミュージシャンとライブをする。
フォークやロックの人たちに交じって
ひとり沖縄民謡を唄う。
隔月で出演して言える高円寺『アローン』の
井上さんと話しているときにこんな会話があった。


 田  「沖縄民謡ってみんな馴染みがないから
    唄の間にMCで解説入れなきゃなんないんですよね。」
 井  「それは、アナタが唄で表現すればいいことじゃないの?」


目からウロコがボロ〜ン。
「言葉が違うから伝わらない」は言い訳に過ぎない。
ビートルズはこれまで何百万人という日本人を感動させた。
みんな歌詞の内容なんかほとんど判っていないけど
それでもビートルズが表現する世界観に
日本人の多くの人が魅了された。
言葉の壁、国境の壁、人種の壁を軽々と飛び越えるのが
音楽の素晴らしさなのに
その音楽の力をまだまだ信じ切れていない自分がそこに居た。


「慈しむように唄え」
この言葉をいつも心に刻んでおきたい。