『西武門節』

西武門(にしんじょう)は現在の那覇市東町。
地名には残っていませんが「西武門病院」などに
その名をとどめています。

  男「行ちゅんどーや かなし」
  女「待ちみそーりー 里前。西武門の間や
    御供さびら」

  男  「帰りますよ、愛しい人」
  女  「お待ち下さいな、あなた。
      西武門のところまでお見送りいたしますよ」


西武門はかつて辻(那覇市)が花街であった頃の玄関口。
東京で言えば吉原の大門(おおもん)。
現在辻は石けんアワアワ〜で女の人が身体を洗ってくれる所ですが
それも吉原といっしょですね。よく知らないけど(笑)。
花街で遊ぼうという男たちは西武門を目指し
迎え入れる尾類(じゅり=花魁)たちは
西武門でそれを迎え入れる。
映画『さくらん』で吉原の花魁のしきたりが描かれていたが
辻も同様に、そこで働く女たちは
西武門から外に出ることが出来なかったそうです。
貧しい家に生まれ、
金で色町に売られて来た女たちが
色町から外に出られるのは
身請けされたときか(お金持ちのダンナなどに見初められる)
年季が明けたときか(借金分の勤めを終える)
棺桶に入ったとき(……)。
遊郭もおそらくそうだったのではないでしょうか。
だから男を見送る尾類小(じゅりぐゎー)は
西武門までしかついて行くことができない。


男は首里のお役人。女は花街の女郎。
この人物設定がこの情景を余計に引き立たせます。

  女「今日や首里上て 何時や参が里前」
   (きゆやすいぬぶてぃ いちやめーがさとめ)
  男「面影と連りて 忍で来さ 無女よ。
    待ちかんてぃすなよーや。」
   (うむかじとちりてぃ しぬでぃちゅさ んぞよ)

  女「今日首里に帰ってしまったら
    次はいつ来て下さるんですか」
  男「愛しいお前の面影が心にあるうちに
    忍んでやって来ますよ。
    だから心待ちし過ぎないようにね」


「待ちかんてぃする」という表現が面白い。
これはうちなーぐちならではの表現で
「待ちかねている」という状態を名詞化したものです。
「待ちかねている状態で居なさるなよ」
ということになるんでしょうけど
直訳するとどうも野暮ったくていけないねえ。
「待ちかんてぃする」と言われるとスーッと伝わります。

  男「淋しさや一人 我ね戻て 行ちゅい
   (さびしさやひちゅい わねむどぅてぃ いちゅい)
    無女や宿戻て 花の遊び」
   (んじょややどぅむどぅてぃ はなぬあしび)

最後に男はこんな恨み言(?)を言います。
「僕は一人淋しく家に帰るけど
あなたは郭に戻って飲めや歌えやの
華やかな暮らしが待っているんだよね。」
尾類小(じゅりぐゎー)の身からすれば
「あたしが好き好んでこんな所で暮らしていると
思っているのかい、お前さん・・・」
と言いたいところでしょう。
男の身勝手な言い草であります。
映画『さくらん』は江戸時代の
吉原の世界を描いた作品ですが
この情景によく似たシーンがあって面白い。
主人公の花魁・きよ葉に通い詰める若旦那のセリフ。

きよ葉「朝が来るのが恨めしい」
  若旦那「私だとて同じ気持ちだ。
      こうして離れてしまったら
      とたんにお前は私のものでなくなる
      今夜にも他の男がと思うとつらい」
     (安野モヨコさくらん』より)

「だったら身請けしやがれボケがぁっ!」
ってなもんでしょう。言われる方にしてみれば。
しかしこんな切ない「疑似恋愛」的感傷に
わざわざ身銭を切って浸るところに
「花ぬ遊び」の醍醐味があるのでしょうかね。
ワタクシにはよくわかりません〜(笑)。


なんにしても叙情的なメロディに
ほんのりとした色気と切なさを乗せて
唄いたい『西武門節』。
ちなみに大城美佐子先生のお店『島思い』は
西武門病院の裏手にあります。
もしアナタが『島思い』に行って
大城美佐子先生の唄う『西武門節』を聴けたら
それはかなりラッキーなことですよ〜。
幸運を祈ります!