唄うということ

「唄い手の仕事とは
“心”という目に見えないものを
“唄”という目に見えないものに乗せて
“相手の心”という目に見えないものに
届けることだ」
(照屋政雄語録より)


「自己表現」という言葉は好きじゃない。
なんとなくそこには「自己完結」「自己満足」
に結びつく「一方的」な感じが漂う。
「唄は自己表現」だって?
ものすごく不完全な感じ。対象者不在。


相手に伝わってはじめて
唄は完結する。
相手に伝わってはじめて
唄い手は仕事をしたと言える。


ならばなにを伝えるのか。


そこには唄者それぞれの思いがある。
百人いれば百通りの思いがある。
ひとりの唄者のなかにだって
複数の思いが内在する。
その「思い」という、目に見えない厄介なものを
どのように表現すれば伝わるのか。
そこで表現者は苦悩する。
頭を使う。身体を使う。神経を使う。
擦り切れてぼろぼろになってのたうち回る。
そうした煩悶の中で生まれたものにこそ“魂”は宿る。
そんなに器用じゃないからそう簡単にはいかないのだ。
もっと頭を使って!もっと身体を動かして!
内なる自分が囁いている。


この闘いはまだ始まったばかり。