[沖縄民謡]備忘録「正しく唄う」
ワタクシが好きな噺家柳家小三治師匠が

「面白く話そう」なんて思っちゃダメだ
落語というのは先人が作ってから
何代にも渡って語り継がれたもの
その話自体がもう面白いんだ
それをこねくり回して


「面白く話してやろう」


とか


「笑わせてやろう」


なんておこがましいことである


「普通に話す」
「正しく話す」


これが大事なんだ

と語っておられて「なるほど」と手を打った。
これは自分が学んでいる沖縄民謡も同じことだ。
自分ごときの若輩者が


「上手く唄ってやろう」


とか


「個性を出してやろう」


とか


「きかせてやろう」


と唄を「いじる」とたいていが聞き苦しいことになる。
録音してみるとよくわかるが
「今日は上手く唄い上げた」
なんて思ってあとで聴いてみると
「自分」が前に出過ぎてとてもイヤらしい。


「正しく唄う」


これが大事なのだ。
正しい「器」を作ってやれば自然とそこに「想い」は盛り付けられる。
器も出来ていないのに料理を載せることは出来ないのだ。


しかしこの「正しく唄う」というのがまた曲者で


言葉
節回し
発声
乗り
三線


どれをとっても何が「正しい」のかを
言葉で表すのは難しい。
沖縄民謡(に限らず芸全般に言えることだが)
を学ぶということはこの


「正しく唄う」


ことの追求なのではないかと
最近つくづく思うのであります。