『ナビィの恋』の独断的鑑賞術

hacchaki2006-05-26

突然『ナビィの恋』の話なんですが。


ナビィの恋』の影の主役はサンラーである。と、まず言い切ってみる。
というより、サンラーの視線で描かれた映画なんじゃないかと
5回目くらいに観たときに、ふと気付いたのですが(8回鑑賞済)。
沖縄好きのあいだでは語り尽くされた感もある本作品だが
あえて今日は、そんな話を書いてみようかと。


オープニング。船の上から波に揺られつつ島に近づく映像。
マイケル・ナイマンの素晴らしいピアノ曲
島に向かっているのになんでこんなに切ないんだろう。
そしてエンディング。
こちらは船に乗って遠く離れていく島をカメラは映し続ける。
ふたたびマイケル・ナイマンピアノ曲
(しかしこの曲のタイトルはナゼ『RAFUTI』なんだろう?)
そこに登川誠仁先生の『下千鳥(さぎちじゃー)』か被さりますます哀愁が募る。
奈々子と福之助のニービチでカリー付けして盛り上がったのに。
ジーの『あっちゃめー小』であんなにカチャーシーしたのに。
なぜだろう…なぜこんなに切ないのだろう?


劇中。島に向かい、島に上陸し、最後に去っていく人間はサンラー以外にいない。
つまり「島に近づき、また島を去る」という視点を持っているのは
サンラーしかいない。サンラー(とオバー)の他には誰も島から出ない。


サンラーはかつて自分の故郷である島から追い出された。
サンラーにとって数十年の時を経てやっと戻った故郷。
だが、そこはもはや安住の地ではなく再び出て行くことを余儀なくされる。
サンラーは紛れもない島人でありながら、今となっては異邦人でしかない。


この目線が、実は、内地から沖縄に思いを持って島に渡る我々の目線と
実はリンクするのではないか。
我々ナイチャーは、沖縄に旅をしては後ろ髪を引かれる思いで
また自分の場所へ帰ってゆく。
その心持ちはサンラーと同質ではないが
かなり共鳴する部分があるのではないだろうか。
それを気付かないように巧妙に(あるいは無意識に)
最初と最後に織り込んでいるから、この『ナビィの恋』という映画が
多くの沖縄人のみならず、沖縄に思いを持つのナイチャーにとって
よりいっそう、いとおしい映画に思えてならないのではないか。


この映画を撮った中江裕司監督もまた内地出身者である。
だからこそこの映画が撮れたのだなあと思う。
中江監督がどんな思いであの構成にしたのかはわからないが
あのオープニングとエンディングのサンラーの視点は
中江監督自身の、「異邦人としての島人」の視点なのではないか。
中江監督は大学で沖縄に渡ってからずっと沖縄で生活しているが、
していればこそ“ヤマトンチュ”としての
アイデンティティを強く意識するのではないか。
ましてや内地に生まれ育ち、内地に暮らす人間にとってはなおさらである。
「強く思い」ながら「帰れない場所」なのだ。
その意味で『ナビィの恋』は、非常によく“沖縄”を表現した映画でありながら
その実、ヤマトンチュのアイデンティティをもってこそ
誕生し得た映画なのだ(勝手な憶測だけど)。


夕暮れの那覇空港で羽田行きの飛行機を待ちながら
遠くに見える慶良間諸島の島影を眺めるとき
いつも、あの『ナビィの恋』のエンディングシーンを思い出す。
粟国島から遠ざかる船、ゆれる島影。そこに被さる島の人たちの笑顔。
自分のわずかばかり滞在で出会った人と、時間とオーバーラップする。
そしてなんだかとっても切ない気持ちになるのだ。
なぜこんなに切ないのだろう?
この切なさはいったいなんなんだろう?
その答えはいつか見つかるんだろうか?


そんなことをぼんやりと考えながら、また、島へ向かう。

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