『屋嘉節』

  『屋嘉節』※抜粋
懐かさや沖縄 戦場になやい
世間御万人ぬ 流す涙


涙ぬでぃ我身や 恩納山登てぃ
御万人と共に 戦さしぬじ


無蔵や石川村 茅葺ちぬ長屋
我身や屋嘉村ぬ 砂地枕


<読み>
なちかさやうちなー いくさばになやい
しきんうまんちゅぬ ながすなみだ


なみだぬでぃわみや うんなやまぬぶてぃ
うまんちゅとぅとぅむに いくさしぬじ


んぞやいしちゃむら かやぶちぬながや
わみややかむらぬ しなじまくら


<訳>
悲しいことに沖縄は戦場となり
あまりにも多くの人たちが涙を流している


私は涙を飲んで恩納山に登り
みんなと一緒に戦火をしのいでいる


いとしい貴女は石川村(の収容所)の茅葺きの長屋に
私は屋嘉の収容所で砂地を枕にしている


6月23日は「沖縄慰霊の日」。
この人「沖縄戦終結の日」と言う人もいるがそれは誤り。
正確には「沖縄における日本軍の組織的戦闘が終結した日」。
本当の“地獄”はこの日を境に加速します。
沖縄戦が正式に終結し、沖縄守備軍と米軍の間で
降伏調印式が行われるのはなんと9月7日。
つまり8月15日以降も戦闘が続いていたことになります)
その地獄はとくに沖縄南部に集中する。
中部から南下する作戦をとったアメリカ軍に追われて
日本軍および沖縄県民が島の南部に
追いやられるしかなかったからです。
その一方ですでに制圧された中部では
捕虜収容所の建設が始まり石川や屋嘉(うるま市)に
多数の日本兵沖縄県民が収容されました。
(以前コザにある照屋楽器店で
照屋林助さんの奥さまとお話しした際
「南部の人たちは大変だったみたいだけど
中部は早くに“戦争が終わっちゃった”からねえ」
という言い方をされていました。
同じ沖縄県内でもその被害や認識には地域差があったようです)


戦争のむごさに打ちひしがれた沖縄の人たちは収容所の中で
配給缶詰の空き缶を胴、バラシュートのヒモを弦、
そして廃材を棹にして即席の三線を作ります。
それが現在お土産屋などで売られている「缶カラ三線」。
戦火の渦に巻き込まれ消耗し切るだけし切った
沖縄のひとたちの心を慰めたのは唄三線
そして唄われたのがこの『屋嘉節』。
哀切を帯びたメロディと戦争への静かな怒りが込められた詞。
「沖縄慰霊の日」を前にぜひ知っておきたい唄として
この曲を取り上げたのでした。