函館ツアー(写真編…1)


箱館山。函館市内どこからでも拝むことができます。



北海道の建築ってこういう感じのものが多く
また古い建物が市街至る所に残されています。



ベイエリアの赤煉瓦倉庫街。横浜との共通性を感じます。
小さな倉庫がいくつも並んで商業施設になっています。



水を上手く取り込んで雰囲気が出ています。



12日の朝食。モーニングビュッフェ万歳!



箱館山山頂より。函館市街が一望できます。
中央左寄りに五稜郭タワーも見えます。



「しれ〜とこ〜のみさきにぃ〜」
で有名なはまなすの花。立待岬にて。



「碧血碑」への入り口は箱館山山中にひっそりとあります。



「碧血碑」。箱館戦争に旧幕府脱走軍殉死者を
慰霊するものとして明治八年に建てられた。
それまで旧幕府軍の死者を慰霊することは許されなかった。
表の文字は旧幕府陸軍大鳥圭介の筆による。
箱館新政府総裁榎本武揚は「特に土方歳三に重きをおいた」
と述べたそうです。



「碧血碑」の立地、そして石のどこにも
誰がいつ建立したのかが書かれていないところからも
この碑の背負った歴史の痛みが伺われます。



函館の、もっとも函館的な風景のひとつ。



称名寺土方歳三新撰組隊士の供養碑」。
土方歳三新撰組副長)は榎本軍に加わり、
函館で戦死した。その場所は一本木(若松町)、
鶴岡町、栄国橋(十字街)など諸説あるが、
土方ゆかりの東京都日野市金剛寺過去帳には、
函館称名寺に供養碑を建てたと記している。
称名寺は明治期の大火で3回も焼けて碑は現存しないため、
昭和48年有志が現在の碑を建立した。
他4名は新撰組隊士で称名寺墓地に墓碑があったが、
昭和29年の台風で壊されたため、この碑に名を刻んだ。」



高龍寺「傷心惨目の碑」
「明治2年(1869)5月11日函館戦争最大の激戦が
函館の市街地で行われた。当時の高龍寺は、もっと
坂の下にあり旧幕府脱走軍の函館病院分院にあてられていたが
同日新政府軍の先鋒隊が乱入し傷病兵を殺傷して寺に放火し、
会津遊撃隊の者が多数犠牲となった。明治12年(1879)
高龍寺は移転、翌13年に旧会津藩有志がこの碑を建て、
惨殺された藩士を供養した。」



松前藩館城跡
明治維新の事変に際し松前藩主十八世徳広が築いた。
明治元年十月二十六日、五稜郭を占領した徳川脱走軍が
福山城に迫ると、藩主徳広は福山城を逃れ、夫人及び男子三児、
その他藩士三百人を従え工事中の新城に移った。福山城を占領し、
勢いに乗った徳川勢は十一月十五日館城を攻撃し、十六日ついに落城、
藩主徳広はその内室子息とともに熊石に逃れた(抜粋)。」