流れに身を任せる

米がそろそろ底を尽きそうだったので
近所のいなげやに行った。


米、ありません。
普段そんなに売れない(であろう)玄米まで、ありません。


とぼとぼと肩を落としつつ蕎麦好きな田所は麺類コーナーに行く。


蕎麦、ありません。
うどん、ありません。
まったく、ありません。


みんな普段家でそんなに蕎麦食ってないだろぉぉぉ。
いつも蕎麦の棚商品余ってるじゃんかっ!


いったいどうなってんだ。


現在被災地では食料・燃料が圧倒的に不足して
それは首都圏の買占めによって起こっています。


ちょと想像してみよう。


今回の地震が関東で起こっていたとする。
避難所生活が始まる。
食料や燃料が足りない。


「救援活動はどうなってるんだ!?」


避難所は寒いし腹は減るし子供は泣くし。
国は何やってるんだ!
食い物は何時来るんだ!
寒いじゃねえか!


そんなときラジオから


「西日本の住民が買占めをはじめていて
関東には食料、燃料が届きません」


というニュースが流れて来る。
さて、そんなときどう思いますか?


買占めに走る人は避難所に行く気がない、ということを聞いた。
自分のことは自分でどうにかする、ってことらしい。


しかし建物が倒壊したらどうするんすか?
米袋3つも4つも担いで
トイレットペーパー担いで
ペットボトル箱で持って
避難所に来るんですか?
カセットコンロで米炊いて
自分たちだけで食うんですか?


そしてこの騒動がひと段落して
結局食べられることのなかった
食材を台所の片隅に山積みにして
いったい何を思うんですか?


自分が住んでいるあたりは内陸で
津波が来る心配はまずない。
陸の孤島というほど田舎ではないし。
あわてずに待ては必ず救援隊は来ます。
そんなにいらないんじゃないすか?
米も水もトイレットペーパーも。


みんなが「3日間」を心がければ
スーパーもコンビニも普通に商品が
並んでいるはずなんじゃないですか?


人間は危機的状況にあるときに
その人の本質が出ると思う。
今こそ「品格」が問われるときなんじゃないでしょうか?



ネコを見る。
シジミは泰然自若としている。
地震のときは押入れに引き篭もるが
終わってしまえばそれまで。
あとは悠々としている。
自然と調和している。


「自分は自然物だ」


と、口には出さないが
もししゃべれたら
そう言いそうな気がする。
人間よりもよっぽど肝が据わっている(ように見える)。
そういう姿を見ているとなんか


「かなわねえなあ」


って思えてきてしまうのだ。



地震は天罰だ、と言った人がいるが
それは捉え方の問題で
事象としては自然現象のひとつに過ぎない。
そして人も自然の一部。
気仙沼でロケ中に被災して
命からがら帰京した来た
サンドウィッチマンの伊達さんもブログで語っているが


「流れに身を任せてみたらどうか」


ホントにその通りだと思う。
今まで人は自然に抗いすぎていたのでは。
人の力で自然を意のままに出来ると
大いなる勘違いしていたのではないだろうか?


(F1の興行主バーニー・エクレストン
人口雨を降らせてレースを面白くしようと
画策していることなどはその最たるもの)


なるがままに。
そういう気持ちになったとき
きっと見えてくるものがあると思う。


あ、もちろん万全の備えと細心の注意は必要。


「死んでもいい」


って意味ではありませんよ。


今、人はすごいチャンスを迎えている。
新しいステージに上がるチャンスを。
ワシはそう思うのです。


つーか、上がろうよ。
次のステージに。
みんなで。
自然と調和しよう。



人間はやれば出来る子!